Merry Christmas\(^o^)/
今日12/25はクリスマス。
ご存知かもしれませんが、クリスマスはキリストの生誕をお祝いする日です。
私の教会は24のクリスマスイブにイブ礼拝を捧げました。
牧師さんからのクリスマス説教と皆でキャンドルサービス、賛美歌を捧げて楽しく過ごしました。
説教では、キリストの生について聖書の聖句を引きながら伝えて頂きました。
キリストの特徴を1つ挙げるなら〈許し〉
そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
マタイによる福音書 18:21-22
イエス様の弟子ペテロが『自分の兄弟が自分に対して罪を犯したら何度許さねばならないですか?7回までですか?』と尋ねました。それに対しイエス様は『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい』と答えました。
七たびを七十倍。つまり相手が何度過ちを犯してもとにかく許しなさい、という話です。
今日仕事で様々あって割を食うことになり、そのような出来事が一度や二度のことではなかったので、同僚に腹を立ててしまいました。その時に上の聖句が思い浮かびました。
その聖句の通り、過ちを許そうという心を持ちました。
するとそのとたん憤りは消え、心に平安が訪れました。主の精神は偉大です。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
ヨハネによる福音書 8:10-11
キリストの生を見ると、とにかく許して、許して、また許した。ひたすら人々の罪を許し、生かしました。
されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
ルカによる福音書 23:33-34
当時キリストを待っていたユダヤ人たちはイエス様をキリストだと分からずに迫害し、十字架につけることまでしました。
彼らは「キリストが来る」ということはわかっていたけど、では「どのように来るのか」を知らなかったので、イエス様が誰かわからず迫害してしまいました。
しかし、キリストは自分を迫害し殺す人のことさえ許し、祈りました。
汚れがある時、水がなければ洗えずずっと残るように、罪を犯した時、悔い改めができなければ解決できません。
悔い改めとは、簡単にいうと自分の過ちを認めごめんなさいすることなので、悔い改めに成功するには〈許してくれる人〉がいなければなりません。〈許してくれる人〉というのがつまりキリストでした。
また、罪とは一般的に知られている罪と聖書でいう罪は少し意味合いが違います。人殺しや窃盗ももちろん罪ですが、物理的に危害を加えることだけでなく人を心で憎むことや、姦淫する心も罪だといえます。一言で言うなら、神様が『してはいけないよ』と言うことをしてしまうこと、御言葉を守らないことが罪といえます。
そう聞くと御言葉が自分の自由を縛る戒律に聞こえるかもですが、御言葉は羊の安全を守る柵のようなものだと聞きました。そこを越えていくことが罪。柵を越えると崖から落ちたり、身に危険が生じます。
例えば『タバコを吸ってはいけない』と言われたとして「なぜ私の自由を縛るのか!」と言ってタバコを吸い続けたとする。すると肺が侵されて病気になり、自分の命に害が出る。罪を犯すとそのように自分に害が出てしまいます。これを防ぐために神様はこれをしなさい、あれはするなという線を引いたわけですね。
体を洗えなければ汚くて病気になるし、罪を癌に例えると切除できずそのままにするなら命に害が出るように、罪を解決しないと自分に害が出る。
洗ってこそきれいになるように、罪は悔い改めでのみ解決できる。
洗えば洗うほど綺麗になるように、悔い改めれば悔い改めるほど私たちの内側にある心、霊が綺麗になる。
だから悔い改めは神様からのプレゼント。
そして罪を許す人、キリストという存在が神様からの大きなプレゼントだと感じました。
いっそう心が清く綺麗になれるように、また、キリストのような愛と許しの生に自分も近づいていけるように日々磨いていきます。
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